2012年1月14日土曜日

仮の住まい

終わりが見えた瞬間にその場所が仮の住まいになる癖があります。
小学校からはじまり、今もその状態です。

2011年12月28日水曜日

とうとうとかたっとう

ちかごろ関西弁にナショナリズムなので、よどみなく流れるようにドライブする話法を見いだそうと日々試行していますが、声それじたい、聞き手に対する敬意の表明法、距離感による標準語との混合率、語尾の力加減、諸々が気になって、毎度毎度思考が逸れに逸れでんでろと煙にまかれてかなわん。
兵庫県は神戸らへんの出身のため、いざとなると標準語にも移行可能な薄めの関西音律に播州弁のアクが混入したようなものを元来くっちゃべっておったのですが、京都に越して来て、しはるしはるが移らはって、奈良と三重の友人の影響で、やんやん言うようになり、しとーやんしやんでええやんしはるしなあなどとやかましな状態なのです。
ここは基本に立ち返ろうということで、播州弁の私小説作家車谷長吉さんの本をかってきて朗読などして勉強しておるのですが、内容、それ自体が濃厚に死や私怨やら糞尿の匂いに野山の風景、を立ち上らせるのでなかなか読み進みません。
やけども神戸弁の際立った特徴、なになにを「している」の活用、なになにを「しとー」(進行形から完了系のあいだのようなニュアンス)が、活字になって「しとう」と書かれていたのを初めてみたので、なんだかたまらなくうれしかったですよというはなし。
しとーの語尾の音から立ち上るのは春のぽわぽわした日だまりの膨らみ。「とー」が吸い込まれるのはそういうオレンジ色の隙間で、そのひびきをもっとーから、わたしはときどきわたしに「かえっていける」のです。
さらにダメ押しの。
いまぽちぽちブログをかいとー中で、あまり使う機会に恵まれへんかったのでむりから最後に一行つけたしましたよ。というはなし。

2011年12月24日土曜日

秋のサー去り

秋が立ち枯れて行くあいだは、このままいけば私が把握する世界は全く灰色になってしまうのではないやろうか、というくらい景色の飛び込み方にこまかいこまかい砂嵐のサーが掛かっているのやけれど、冬至までくるとここ数日の長い夜じゅうつづいた突貫工事で冬は竣工されており、ガサガサの薄膜は取り払われ、明かに澄んだ大気ごしの青空に樹木にその他色々に色あいがもどったような、いや、色あいはもともと変わっていなくて、ここまで届くようになっただけか、そんな覚えとともに昨日のお昼は出町柳のまわりをぐるぐると散歩し、骨まで到達した寒さを抱えて梅田行きの電車に乗ったらば、お腹にためた寒さが発熱しだしてふかいふかい眠りが訪れた。このすさまじい引力の眠りが死因だったらよいのにとあこがれて。
そんなことを忘れながら忘年会に参加し、おいしいご飯を沢山食べ、焼酎と酎ハイを飲み、おおいに談笑し、卓球とビリヤードに興じたのち、おいしいご飯を少し食べ、サングリアと赤ワインを飲み、手短に談笑し、小豆の電車に乗ってかえってきてねむったけど、起きたら、きっと眠りが怠惰な引力のものだったせいで靴下の足が少しだけ湿っていて、怠惰。この怠惰の円環のいちぶぶんを私は愛してやまないけれども、つねにこの輪っかをほぐして確認しなければいけないようなのでそれは性で、性ですねと昨日だれかに-わたしはしってるけど仮に某とおいて-言われたなあ違う言葉じりでやったけど。
それがなんやったか、と思い出せたのやけど、その場ではわりと感覚に合致して受け取ったもののいまになって文字に書いてしまうと尊大に聞こえそうなのでここではいいたくないなあ、つまりこれは独白風のそと面の文章やなあということを確認して、彼もそういう、そと面となか面のことがせめぎあうのでこれを言うのは恥ずかしいのやけどなあ、というようなことを会話の中で自分にいったね。それとこれをこれにそれしてこうやんそうやんちゃうやんそうそうこうやんというのがひとの考えるという会話するという行為で、その内実に頼りがなくても、引き出しをぱたぱたしまくる行為には何か、霊媒的な高揚があるね。
道行きはたのしいなあ、楽しくないけど、愉しいなあ、これもちょっとちがうから自分でかってに拵えると棚納しいなあというところ。

2011年12月21日水曜日

秘匿をしって大人めく

おはようございます。
今日は通常運転の平日ではないので家を出る時間が遅く、バナナなど食べながらゆるりと体をのばしています。

と、書いたのは今朝のこと。
時間がどこかに溶け出して出発時刻になっていたので
保存をして出掛けたのでした。

-きをとりなおして-

一昨日のことです。
このことことぶろぐを更新するためだけに、日常の些事を目を皿にして捉えようとするのがなんともあさましいなあという気になり、よし今日はやめようと思った冬冴えの朝に、おはなしは舞い込みました。

研究室に出入りの業者さん-おない年で、なつこい感じのひと-に
「土曜日に、街に居ませんでした?」
と問われ、すぐには繋がらなかったのですが、3秒ほど辿ると突き当たり
「ああ、居ましたよ。声かけてくれはったらよかったのに。どのへんで?」
「藤井大丸の近くです。友達の車にのってたんですけど、壊れて止まってたし恥ずかしかったんですよね。」

故障した車に往生し、その場に止まっている業者さん。
通りを女の子と連れ立って歩く私。3秒くらいは眺めていたのではないやろうか。
ひとがひとの顔をそのひとやと認めるのにはコンマ1秒ほどしか要らないので、3秒も眺めていれば、色々お話を拵えるのに充分です。

おそらく幸せなクリスマスカップルに見えたやろうなあ。12月のこの街を二人で歩いているということはそういうことです。
そして、余裕が在れば手に提げた買い物袋にも目がいったのやろうし、そうすれば。
ああ、驚きを仕掛けるでもなく、落ち着いて二人でいることにも随分馴れた間柄なのやろうなあ。となります。
背丈を比べて、服装のテイストから昼間の仕事を考える。もっと下世話には、昨晩は一緒に寝たのかしら。

「違うんです、カップルではないのです。大学生時代、やたら仲良くしておった女ともだちなのです。ただおかいものに付き合っとっただけで。」

これまでの僕ならこういいましたけど。
今は他人のお話にも動じなくなってきたので、しぜん、自分につけられたお話にも動じません。

秘匿を知って、大人めきたい。
とのことで、黙っておきました、余韻は、残せたかわかりません。
とりあえず重心はうしろに、間をたっぷりめに、笑いました。

つまりはこどもなので、大人めきたいのです。
セクシーほしい。

2011年12月19日月曜日

雑記

焦れているけれど
ただキーを打っているだけでは
思っても居ない方にひっぱられるだけだ。
小手先に押し込められてもっともっとしぼんでいくだけだ。

意味しかない、覚りのない文字列しか書けなくて
分量をこなす力がないのなら
たったひと言、ひと文字をひもとくことをするしかない。
その行いは誰にも発見されなくてかなしいけど
伝わらないのならばもとより。はじめから。なにもないのやから。

そうであって
これからもそうでありつづけるもの
それにすれちがうまでは
ひたすらに耳を澄ます目を澄ます肌を澄ます
見開いてまつだけだ。

生活。最低限それを回しているあいだは
取り組めなくてとっても焦れる
停滞の時間が喉から手がでるほど欲しい。
でも欲しいからといって
すべてに上手く処して切り分けてしまってはもともこもない。
いつまでたっても停滞が借り物なのだ。
というのはここいちねん程の教訓。
やけれど
なにか努めることができる部分は、きっとある。
そうであってほしい。

すれちがうもの。
幸いにも今は冬だから、混ざり合いにくくて、きっと見つけやすいはずだ。

2011年12月18日日曜日

空白にことばをつけたひとはいだいだ。

昨夜から京都のまちはいちだんと冷えています。
「寒いね」「寒いですね」との会話が指し示す温度は毎日違っているし、人によって違っているし、出会うまでに通ったゆき道も違うから判りようもないのやけど、少しの連帯を覚えるのは、ひとりよがりなんでしょうか。

すれちがうようなもののことを考えています。
こんな形の先端が肌にこの程度の圧で当たり、それは皮下のタンパク某に伝令され、神経を電気が奔り、脳が検知して。などという仕組みは確かにからだに備わっているのやろうけれど。
どうやらその積算で表しうるものではなく、なんかこう真理をぴたっと言い当てられたような"感覚の文章"-しかもそれはそれ以上分解されることがない-といえるようなものが世界には点在していて。ひとは時折それをそれと気づかずにすれ違い、それとすれちがったことのあるひととまたすれ違うのです。
永遠にひととひととはわかりあえないのは、"感覚の文章"は誰にも書くことができないからです。その文法は、未だ解き明かされていないけれど、そこにあることはあるのです。書けないけれど、目を凝らせば模様が、耳を澄ませれば音律があらわれることがあるようなのです。
あらわれたものを捉えたひとのなかには、どうにかしたくて仕方がたくなってしまうひとがいて。そのけっか、詩をかき、写真を撮り、絵を描いたりして、"感覚の文章"はにんげんの景色に翻訳されています。やけれど、作ったひとにそれをにんげんの言葉へと細大漏らさずふたたび翻訳してもらうことはできないのです。誰も"感覚の文章"そのものを話す事はできないのですから。

すれちがうようなもののことを考えています。
だれかがすれちがったすれちがうようなもののことを考えています。

2011年12月16日金曜日

補集合

机を後ろに寄せて
教卓は黒板のほうへ
青いスチールパイプのほうきを
床の罫線に沿わせて曳く
両手の円運動が
地面に水平になるのを
我知らずたしかに過ぎている
物理や数学は
すでに消しがたく宿っているのだけれど
今はまだ喃語を話すのみで
母音が鼻骨を震わせても
たな引く昼間にあらかた吸われてしまう
それでもわずかに残った響きは
毛羽立った化繊の穂先を
上履きに何度も踏ませ
灰色のわたぼこりになって現れる
漠たるかたちは掃きよせられ
机の足にほうきがあたるその
とき
を少しだけ出し抜いて
窓の外の空はこつりと鳴り
ひと筋の風が
目に見えて胸の前で反り返る

誰かが前にすれちがったものと
私もすれちがったことがあった