ちかごろ関西弁にナショナリズムなので、よどみなく流れるようにドライブする話法を見いだそうと日々試行していますが、声それじたい、聞き手に対する敬意の表明法、距離感による標準語との混合率、語尾の力加減、諸々が気になって、毎度毎度思考が逸れに逸れでんでろと煙にまかれてかなわん。
兵庫県は神戸らへんの出身のため、いざとなると標準語にも移行可能な薄めの関西音律に播州弁のアクが混入したようなものを元来くっちゃべっておったのですが、京都に越して来て、しはるしはるが移らはって、奈良と三重の友人の影響で、やんやん言うようになり、しとーやんしやんでええやんしはるしなあなどとやかましな状態なのです。
ここは基本に立ち返ろうということで、播州弁の私小説作家車谷長吉さんの本をかってきて朗読などして勉強しておるのですが、内容、それ自体が濃厚に死や私怨やら糞尿の匂いに野山の風景、を立ち上らせるのでなかなか読み進みません。
やけども神戸弁の際立った特徴、なになにを「している」の活用、なになにを「しとー」(進行形から完了系のあいだのようなニュアンス)が、活字になって「しとう」と書かれていたのを初めてみたので、なんだかたまらなくうれしかったですよというはなし。
しとーの語尾の音から立ち上るのは春のぽわぽわした日だまりの膨らみ。「とー」が吸い込まれるのはそういうオレンジ色の隙間で、そのひびきをもっとーから、わたしはときどきわたしに「かえっていける」のです。
さらにダメ押しの。
いまぽちぽちブログをかいとー中で、あまり使う機会に恵まれへんかったのでむりから最後に一行つけたしましたよ。というはなし。
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