秋が立ち枯れて行くあいだは、このままいけば私が把握する世界は全く灰色になってしまうのではないやろうか、というくらい景色の飛び込み方にこまかいこまかい砂嵐のサーが掛かっているのやけれど、冬至までくるとここ数日の長い夜じゅうつづいた突貫工事で冬は竣工されており、ガサガサの薄膜は取り払われ、明かに澄んだ大気ごしの青空に樹木にその他色々に色あいがもどったような、いや、色あいはもともと変わっていなくて、ここまで届くようになっただけか、そんな覚えとともに昨日のお昼は出町柳のまわりをぐるぐると散歩し、骨まで到達した寒さを抱えて梅田行きの電車に乗ったらば、お腹にためた寒さが発熱しだしてふかいふかい眠りが訪れた。このすさまじい引力の眠りが死因だったらよいのにとあこがれて。
そんなことを忘れながら忘年会に参加し、おいしいご飯を沢山食べ、焼酎と酎ハイを飲み、おおいに談笑し、卓球とビリヤードに興じたのち、おいしいご飯を少し食べ、サングリアと赤ワインを飲み、手短に談笑し、小豆の電車に乗ってかえってきてねむったけど、起きたら、きっと眠りが怠惰な引力のものだったせいで靴下の足が少しだけ湿っていて、怠惰。この怠惰の円環のいちぶぶんを私は愛してやまないけれども、つねにこの輪っかをほぐして確認しなければいけないようなのでそれは性で、性ですねと昨日だれかに-わたしはしってるけど仮に某とおいて-言われたなあ違う言葉じりでやったけど。
それがなんやったか、と思い出せたのやけど、その場ではわりと感覚に合致して受け取ったもののいまになって文字に書いてしまうと尊大に聞こえそうなのでここではいいたくないなあ、つまりこれは独白風のそと面の文章やなあということを確認して、彼もそういう、そと面となか面のことがせめぎあうのでこれを言うのは恥ずかしいのやけどなあ、というようなことを会話の中で自分にいったね。それとこれをこれにそれしてこうやんそうやんちゃうやんそうそうこうやんというのがひとの考えるという会話するという行為で、その内実に頼りがなくても、引き出しをぱたぱたしまくる行為には何か、霊媒的な高揚があるね。
道行きはたのしいなあ、楽しくないけど、愉しいなあ、これもちょっとちがうから自分でかってに拵えると棚納しいなあというところ。
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