昨夜から京都のまちはいちだんと冷えています。
「寒いね」「寒いですね」との会話が指し示す温度は毎日違っているし、人によって違っているし、出会うまでに通ったゆき道も違うから判りようもないのやけど、少しの連帯を覚えるのは、ひとりよがりなんでしょうか。
すれちがうようなもののことを考えています。
こんな形の先端が肌にこの程度の圧で当たり、それは皮下のタンパク某に伝令され、神経を電気が奔り、脳が検知して。などという仕組みは確かにからだに備わっているのやろうけれど。
どうやらその積算で表しうるものではなく、なんかこう真理をぴたっと言い当てられたような"感覚の文章"-しかもそれはそれ以上分解されることがない-といえるようなものが世界には点在していて。ひとは時折それをそれと気づかずにすれ違い、それとすれちがったことのあるひととまたすれ違うのです。
永遠にひととひととはわかりあえないのは、"感覚の文章"は誰にも書くことができないからです。その文法は、未だ解き明かされていないけれど、そこにあることはあるのです。書けないけれど、目を凝らせば模様が、耳を澄ませれば音律があらわれることがあるようなのです。
あらわれたものを捉えたひとのなかには、どうにかしたくて仕方がたくなってしまうひとがいて。そのけっか、詩をかき、写真を撮り、絵を描いたりして、"感覚の文章"はにんげんの景色に翻訳されています。やけれど、作ったひとにそれをにんげんの言葉へと細大漏らさずふたたび翻訳してもらうことはできないのです。誰も"感覚の文章"そのものを話す事はできないのですから。
すれちがうようなもののことを考えています。
だれかがすれちがったすれちがうようなもののことを考えています。
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