2011年12月15日木曜日

つちくさいことば。

昨日めでたく
この、ことことブログ(ここに勝手に略称を設定)を開設し
さあ、張り切って毎日いち作文をしようと意気込んでいたのですが

今は夜中の12時半。はやくも日をまたいでしまいました。
なにか書き付けなければ、と焦ってはいるのですが
尊敬している先輩と5時間もぶっ通しで会話をしていたので
頭がちりちりしており、今日は締まりのない雑記におわると思われます。
それでも、ひと走りしてみよう。


近頃は、言葉の危機を、そればかりをずっと考えています。

こういうと、「キレる若者達」「昭和のあたたかい日本」などとのたまう
年寄り連中みたいで、あんたはいったいいくつなんや。とうさんくさいことこの上ないのでしょうが
そういった過去礼賛ではなく
もっと今現在の。私たちの実存に。関わる問題として感じています。
おもにツイッターを通じて、異変を感じていて。


言葉が肉体の生理を離れている。

ツイッターでの
パルスのような感想
はやり言葉
アメリカンジョークのような、仕組みでとる笑い。

いつのまにかネットスラングですらなくなった
リア充、オワコン、などなど

思考の体が言葉になるというより
形をつくってそこに並べるのが言葉
というふうに順序が代わっているような気がしているのです。


ここでもう一つ、生理を離れてしまったものとして
お金を例にとりますと。
過日のサブプライムローン問題は
物物交換を経て、貨幣を生み出し、貨幣の金兌換を廃止し
電子取引きで実物をみなくても済むようになり
ついにはカラの概念にまで上り詰めたお金が幽霊になり
世界中をポルターガイストで揺さぶりまくったという現象でした。

姿かたちのわからない概念を前提として仕切り直し
改めてそれに沿うような器を拵えるのは
たいへんに難のあることで。
ルールは、そのルールに対しては絶対だけど
どうやらわれわれの存在している体と心のないまぜの世界では
ルールの空間が捉えられない隙間が時々できるようなのです。

少し話がそれましたけど
言葉はもともと自分の体(あるいは認知)と心をつなぐものであり
それから対面した他者に話しかけ
遠くはなれた人には紙にかきつけて送り
もうすこし緊急には声だけで受話器からこんにちは

と、じょじょに飛び回る範囲をひろげたものの
なにか自分の体を、受け手の体を駆使している実感は永らくあり
それは、携帯電話のメール交換になっても
送信ボタンにわずかながら残っていました。
相手の読んでいる姿を想像するから絵文字など打つのでしょう。

ツイッターではどうでしょう
もはや受け手の生理は私にはあまり見えません。
それなら送り手はなにを思ってあれだけたくさんの
文字情報を溢れさせているのだろう
私はなにがしたくてあそこでぐちぐち言いまくっているのだろう。
ほかのひとも、ほんとにそんなに言葉が溢れて止まらないのか。

たくさんの郵便受けが
くちをぱくぱくさせてよく喋っているけれど
その口腔は光の射さない影になってて
なにが届いているのかがわからない。
配達証明として、時々イイネ判をおしてもらって空虚。

私は、私は、私は。
私はずぶずぶ私を時々触って確かめないと
たくさんの乾いた生理の中で乾きます。


収束しなくてみっともない。
後日ちゃんと考察に励むとして
このぐしゃぐしゃの、ポジショントークなんか被害妄想なんかわからない
ぐしゃぐしゃ。これそのものが、なんか大事なんです今。


つちくさいことばにたくさんであいたいよ今。
おやすみなさい。

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